〇〇よりも相手を願う

本日は、佐古教会の教祖生神金光大神さまのお祭り日。祭典後のお話が私の担当だったので、その内容を紹介したいと思います💡

「目には目を、歯には歯を」という有名な言葉がありますよね。紀元前1700年、つまり、約3700年頃前につくられたハンムラビ法典に書かれている言葉です。

これは、「やられたらやり返せ!」ではなく、どちらかというと、「やられたら同程度の復習でとどめなさいよ。復習の連鎖が起こらないようにしなさいよ」という意味で過剰な報復を抑制するために書かれている、というのが学説的な捉え方になっているようです。

このような法律が3700年前も前からあるように、私たち人間というものは、やられたら復習したい!という気持ちを昔から持っているんだなぁ、と感じます。

少し前にも流行りましたよね、倍返しだ!ってどんでん返しをしていく銀行員の話。あれを見てスッキリした~!っていう人達が多いっていうことは、今もそういうことなんだな、と思います。

もちろん、私にも、やっぱりそういう、やられたらやり返したい!という気持ちはあります。

昔、小学2年生頃、南佐古の通りを歩いていたんですが、道路の左側を歩いていたんですよね。そしたら、自転車で後ろから追い抜いてきたおじさんが、「右側通らんかー!」って、かなり怒って、怒鳴りちらしながら横を通っていったんですね。

私は、それにすごい腹が立って、そのおじさんが見えなくなったくらいで、「うっさいわー!」みたいなことを怒鳴り返したんです。で、引き返してこられても怖いから、そこから猛ダッシュで逃げるという…幼いながらに、理不尽にやられたことは、相手にやり返したい!とやっぱりそう思っていたように思います。

でも、面白いことに、教祖は、まったく違うことを教えてくれているんですね💡

人に悪く言われた時に、信心しているからこらえなければならない、と思ってこらえるぐらいではまだいけない。先方の心をどうぞ直してあげてください、とおがんであげるようにならなければいけない。

天地は語る374

信心しているから、何か言われてもこらえておく、だけではまだ足りないと。

悪い事を言った相手の心がなおるようにと祈らせてもらいなさい、とまで言われているんですね。

このみ教えを聞いた時は、結構衝撃的でした。

ちなみに、教祖自身も、家の麦わらの垣根を誰かに放火されかけた、ということがあった。それをみた人が、「金光様、こういうことをする者には罰を当てておやりなさい」と言ったら、「こういうことをする者こそ、神に願って、心を直してあげなければいけない。」とおっしゃったという教えも残っています。

私はこれ、教祖様から、「神様の心になって人を、物事をみなさいよ」と言われているように感じるんですね。

一般的には、よく、「悪い事をしたら神様から罰をあてられるよ」とも言われたりますが、天地金乃神さまの心というのはそうではない。この神様にとっては、この天地に生きる人すべてが可愛い氏子で、さらに言えば、出来が悪い人ほど、難儀な人ほど神様にとっては「かわいそう、かわいい、助けてやりたい」とより一層思いをかけられているんですね。

今までは自分に害を加えてくる人は、ひどい人、いじわるな人、としか思えなかったけれども、そこにさきほどのような神様の視点をいれたら、どうでしょう。

小さな子供にまで怒鳴らないとやっていけないような状況になっている人。盗みや何か悪い事をしなければ、どうにもならないようになって生きている人、という難儀な人達が目の前に現われてくるんですね。

そういう人達が助かっていって欲しいと祈る。これが神様の心なんだなぁということを感じさせていただいております。

言うは易く行うは難し、とのことわざにもあるように、実際のそうしようと思うと中々難しいことかもしれません。

だからこそ、「目には目を」ではなく「相手を願う」このことを日常の中で稽古をし、習慣とさせていただき、そして生き方へと変えていく、このことが大切だなぁ、私もまだまだではありますが、ともどもに、稽古させていただきたいなあと、思います🙏