<初代のおかげ~教会設立>

初代教会長
木村馬蔵
(1861~1942)

明治26年、鋳物工場で職人をしていた木村馬蔵(当時32歳)は脚気(かっけ)を患い歩行困難となり、仕事もままならない状態になりました。あらゆる治療を試みましたが一向に回復せず、そのような 中で妻・キクが「金光教はよくおかげがいただけるようだ」との噂を聞きつけ、当時、徳島布教所で布教していた高田千代蔵師のもとへと夫婦で参拝をしました。
 高田師から初めて聞く神様の話や天地の教えに感銘を受けた馬蔵は、それから毎日、キクに背負われるようにして参拝を続けました。その中で徐々に身体も回復し、仕事に復帰できるようになるまでのおかげを頂きました。
 そして馬蔵は息子・久吉が15才になると、高田師の師匠である難波教会初代教会長・近藤藤守師のもとへ修行に行かせ、自身も金光教の教師となり、80歳で亡くなるまで生涯金光教教師として人に助かってもらいたいと願う神様の御用につかっていただきました。
 佐古教会は明治35年(1902年)7月11日、この木村馬蔵師によって設立されます。

<二代のご比礼>

二代教会長
木村久吉
(1881~1945)

15才から親元を離れ、9年間にわたり難波教会の師匠のもとで信心修行をした木村久吉(1881~1945)は金光教教師拝命後に徳島へ帰り、28歳でタミと結婚します。その後、徳島教会・小松島教会・市場町教会の教会長としてそれぞれの地で布教をしますが、その間に授かった三男五女の子どもは、次男・優(まさる)、五女・教子(のりこ)を残してそれ以外の二男四女は6歳を迎えることなく、次々と亡くなります。
その中でも信心劣ることなく神様に一心を向け、大正15年(当時43歳)には佐古教会副教会長となり、昭和17年(当時60歳)、父・馬蔵が80歳で帰幽した後、佐古教会長を拝命します。
昭和18年、以前から金光教を信心していた隅田武彦氏がスフ繊維を開発し、日本油脂(株)(※現在の東邦レーヨン)の繊維部徳島工場の工場長に着任し、2年半を徳島で過ごします。その滞在期間、隅田氏は佐古教会を参拝し、久吉の取次・祈念を通して、死にかけた子どもが生き返る、どうにもならなくなっていた社員の心が変わり家族の人生をも好転していく等、当時の社員に次々と奇跡のようなご比礼があらわれていきました。
後日、この時のことを隅田氏は「光り輝く工場」として手記に記しています。このようにして金光教を信心する人が増えていきましたが、昭和20年7月4日の徳島大空襲にて佐古教会は全焼しました。
久吉は娘・教子に御神璽を託して逃がし、当時足が悪く「教会に最後まで残って死ぬ」と言う母・キクとともに教会に残り、神前を拝みつつ63歳でその生涯を終えました。

現在の佐古教会の塀だけが、この大空襲の時にも燃えずにその姿を残しています。

<三代の教会の復興>

木村教子
(のちに宝利と改姓)
(1923~1956)

久吉の娘である教子は昭和17年(当時19歳)に金光教教師を拝命し、1年ほど金光教本部の経理部に所属します。その後、昭和20年4月に徳島に帰り、その年の7月4日、徳島大空襲にあい、母・タミとともに教会の御神璽をもって避難しますが、タミは五か月後亡くなります。
そして兄・優が戦地から帰ってきて金光教教師の職をとるまで、信徒宅に仮住まいし、佐古教会の教会長として散り散りになった信徒へ声掛けし教会復興の働きかけをしていきました。
優が金光教教師となってからは教会長の任を優に譲り、昭和23年に金光教壬生川教会へと嫁いでいきました。

三代教会長
木村優
(1917~1997)

教子の兄である優(まさる)は、東京帝国大学文学部宗教学科を卒業後、昭和17年(当時25歳)善通寺西部第三九部隊に入隊します。それから将校として満州へ行きましたが、終戦間近に空軍に襲われ部隊はバラバラになりました。
思い詰めた優は無意識の内に拳銃を額に当てて死のうとした瞬間「犬死にするな」という父・久吉の叫びにも似た声が聞こえ、思わず拳銃を落として我に返りました。ちょうどその時、徳島では大空襲があり父が亡くなった時であったと後に知り、優は父の祈りが空間を超えて届いたのだと何度も語っています。
終戦後、満州から帰ってきた優は房江と結婚し、信徒の家を間借りしながら、全焼し信徒も散り散りになった佐古教会の復興につとめました。さらに昭和22年(当時30歳)に金光教教師となり、長男・徳一、長女・美子を授かり、昭和30年に教会施設が建築されました(現在の広前部分)。
教会は「開かれた教会として世間の人々の関心の的にならなければならない」との信念のもと、教会活動とともに町内の世話係、地域の非行少年のお世話、刑務所の教誨師、民生委員、家庭裁判所の調停員など様々な役を担っていきました。