見方によって世界は変わる
今日は午前中、月に一度の傾聴ボランティアの研修日でした💡
研修では約2時間半、参加者の人の感想や、参考図書、養成講座の内容等から、皆で話し合います。
今回は、その内容の中で学んだ
「意識の志向性に応じて現出する自己と世界の現れ」
という言葉から思ったことを書いてみたいと思います。
この言葉は、聴かせていただいた相手の話の、何を(どこを)聞くかによって、相手にとって現れてくる世界が違う、ということを教えてもらいました。
例えば、老健施設の入居者が夜中に大声をあげる。
それに対して寮母である自分は「他の人が起きてしまう、他人の迷惑になるでしょ」という見方をすると、
その入居者の方にとって、自分は「管理者」として立ち現れてくる。
またそれとは別に、「夜中に大声を出さないといけなかったあなたの苦しみは何?」という見方をすると、
その入居者の方にとって、自分は「援助者」として立ち現れてくる。
自分が相手のどこに意識を向けるかで、その相手にとっての世界が大きく変わってくる、ということだなと理解しました。
傾聴では、相手の気がかり(喜び、苦しみなど)を聴かせていただくことを目指しています。
そのようなことを話して頂いている時、
「では、金光教の教師は、結界取次の場で参拝者のどこに意識を向けるのだろうか?」
という考えが私の中で出てきました。
自分が参拝者にとって、教祖金光大神の手代わりとして立ち現れるには…?
それは、教祖が参拝者をどう見ていたのかに意識を向けると、答えがあるような気がします。
取次者は参拝者のお話の何を受け取り、返すのか。
それは、参拝者の人の神心(かみごころ)の部分、願い(本音の理想)、苦しみというところを受け取るのが大事ではないかなぁ、と感じました。
私たち人間はみんな、神さまの愛し子として、神さまの心を持って生まれさせていただいている。
その神心のところに意識を向けさせていただくことが、大切なのだなぁ、と今日の研修の中で思わさせていただきました🙏
まだまだ私自身が未熟で、出来ないことも多いですが、私も、参拝者の方も、みんな神さまの心をもって生きる氏子なのだという見方を大切にさせていただきたいなと思います🙏