お供えの心

農作業で忙(いそが)しい時など、ご飯を神に供えるのに、足が汚(よご)れているからと、めんどうに思って供えるのでは、神は喜ばない。それよりも、釜(かま)の中で少々かき寄せて、神様と言って拝んで、それをよく混ぜていただけ。神はそれを喜ぶ。

天地は語る198

これは、ご神前にご飯をお供えするために、農作業で汚れた足を綺麗にして、ご飯をよそおって、改めてご神前にご飯をお供えさせていただく。

農繁期の忙しい中に、この時間をとるのがめんどうだな、と思ってしぶしぶやっているのでは、その心を神様が受け取られて、喜ばれない。

ということで、自分に置き換えても、めんどくさそうに食事を用意されても、あまりうれしくはないですよね(用意してくださるのはありがたいのですが。。。)

それよりも、「いつもお世話になってます」と心をこめて神様を拝ませていただく。

その心を神様が喜んで受け取ってくださる。

この、形ではなくあくまでも「心」に着目した教えを金光教では教祖がよく説いてくださっていて、

私はこの信仰感がとても好きです😊

神様は品物やお金を受け取るわけでもなく、何かを犠牲にすることを喜ぶわけでもなく、子供(私たち人間)が神の願いに生きて、喜んで安心し、助け合って生活できていくこと

その子供の喜びやお礼の気持ちを一番に喜んで受け取ってくださる。

そういうものなのだと理解しております🙌

信心を進める中で、神様と一緒に喜びあう生活。

すすめていきたいですね😊

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