後に残してくれたもの

今日は、教徒の方の五十日祭・合祀祭が教会で執り行われました👏

私もお世話になっていた方で、祭典の時には、その方の笑顔や語りかけるようなお声が思い出され、その中で暖かな空気を感じ

家の守りの御霊(みたま)の神様として、お立ちくださっているのだなと感じます。

教徒(きょうと)というのは、家の宗教が金光教の方のことで、お葬式も金光教式で仕えられます。

家の宗派を変えるというのは、よっぽどその宗教に魅力を感じたか、自分の後の代の人たちまでこの信仰と関わっていってほしいという強い願いがないと、なかなかできないことだと思います。

なので、教徒になられた家は、それぞれに、それだけの「おかげの実感」と「助かりの歴史」というものがあるのだろうなぁと思います。

佐古教会でも、初代教会長となった木村馬蔵先生は最初、脚気(かっけ)という病気で歩けなくなっていたところを、参拝を通して歩けるようにならせてもらったという「奇跡的なおかげ」がありました。

でも、それだけなく金光教の先生が説く「天地金乃神」という神様、そして天地に生かされる人としての生き方に感銘を受け、これは確かな道だと信じ、金光教の教師とまでなりました。

私自身は、教会で生まれ育っているものの、初代の先生のような「目に見える奇跡的なおかげ」というのは経験していません。

けれども、子供のころから自然と生活の中で教えてもらっていた生き方・価値観はとても素晴らしいものだと思っているし(私はそれをまだまだ体現出来ていないのですが💦)、

目に見えない奇跡的な働きを日々いただいていることに気が付かせてもらえる信心が、とても有難いものだとも思っています。

一人でも多くの人が、この信心を通して助かってほしい、とも思うし、このお道を残してきてくださったご先祖様に感謝しています👏

自分の家の信心初代のおかげ話や、残していきたいと大切にしてきた信心の中身を、後を継ぐ私たちも大切にさせていただきたいなぁと、改めて思わせていただきました👏

雑記

前の記事

食に向き合う
雑記

次の記事

「参拝」をテーマに