人は人のために救済す
昨日はお疲れモードでしたが、しっかりとお休みさせてもらって、今日は少し復活してきました😆
普段から優しい夫がいつも以上に優しく気遣ってくれて、本当に勿体ないことだなぁと感謝しています😭
さて、皆さんは岡山の四聖人と呼ばれる人達をご存知ですか??
明治時代の中頃から昭和の初めにかけて、恵まれない人々に愛を持って救済事業に取り組んだ人たちが岡山県にいました。
岡山観光WEBのHPより掲載
【石井十次】
明治時代に、児童救済に尽力した人物で、「児童福祉の父」と呼ばれている。宮崎県に生まれ、岡山医学校(現:岡山大学医学部)で学び医師を目指すも、それを断念してまで児童救済に尽くした。邑久郡大宮村上阿知(現:岡山市東区上阿知)で代診をしている時に、四国巡礼から帰途につく母親から一人の男児を預かった事をきっかけに、孤児救済事業を始める。三友寺(岡山市北区門田屋敷)の一角を借り、岡山孤児院を創設。
【留岡幸助】
明治から昭和初期にかけの社会事業家で、「感化事業の父」と称される人物。岡山県上房郡高梁町(現:岡山県高梁市)に生まれ、同志社英学校(現:同志社大学)を卒業後、牧師となり、北海道で受刑者に教えを説く、教誨師となる。囚人たちとの面談や調査、渡米しての研究で監獄改良よりも、根本的な対策として少年感化事業に関心を持ち、東京巣鴨に「家庭学校」を創立。その後、社会事業の集大成として、「北海道家庭学校」を設立。
【山室軍平】
基督教慈善団体である救世軍の、日本人初の士官(伝道者)。岡山県阿哲郡本郷村(現:岡山県新見市)に生まれ、東京で印刷工として働きながら欧米から入ってきた新しい学問を学ぶ苦学生でもあった。のちに同志社神学校で学び、高梁基督教会堂などで伝道活動を行っていた。石井十次と共に孤児救済にも取り組んだ。苦しむ人に手を差し伸べて行動する彼の社会事業は多岐にわたり、娼妓自由廃業、職業紹介、慈善鍋、事業虐待防止運動などにも携わった。
【A.P.アダムス】
アメリカ・ニューハンプシャー州に生まれる。小学校教師を経て明治時代に、教育者として専門教育を受けた宣教師の派遣団体アメリカンボードの宣教師として岡山に赴任。岡山郊外の貧困地区の子どもたちをクリスマス会に招待し、地区の改善を決心する。やがて、小学校や診療所などを開設し、後の岡山博愛会病院に発展する。セツルメント活動を通じて、惜しみなく社会福祉活動に尽力した。
私も今日初めて知ったのですが、このような素晴らしい活動をされてきた四人の方が岡山にはいらっしゃるようなのです💡
そして、その四聖人の一人であるアリス・ペティ・アダムス(A.P.アダムス)さんと金光教との関係という話を今日の勉強会の時に聞かせていただきました✨
明治40年頃に金光中学でアダムスさんに講演に来ていただいたり、そこから4年ほど英語教師として金光中学で勤められていたこともあるようです。
さらには、佐藤範雄(さとうのりお)先生(芸備教会初代教会長)が金光教の教監(きょうかん)をつとめられている時に開催した教会長講習会の時には、アダムスさんが金光教の教会長に対して講話を行ったのだということもあり…
それらの中で、アダムスさんに感銘を受けた人は多く。
「この人は生きたる神である」と評された人もおられたようです。
「金光教の信仰を持つ者として、人のために、お役に立つために」
と言うのは簡単です。
が、それを実行していくのは、実は本当に大変なことで…
私もこの部分に関してまだまだ覚悟が足りていない事実があると自覚しています😣
このアダムスさんが金光教に与えたものは、教祖が願われた「人が助かりさえすればそれで良い」ということへの回帰。
そこには宗教の違いも関係なく、その信念を持って実際に行動していくことの大切さであったのではないかと感じています。
そして佐藤範雄先生は、昭和6年にこのような文章を残されています。
「わしは明治四十一年以降救済について一つの主義をたてて次の如くいひ現してをる。
「救済四則 佐藤宿老談」『金光教徒』第783号、昭和6年9月4日
一、滅罪のために救済せず。
二、報応のために救済せず。
三、宗教のために救済せず。
四、人は人のために救済す。
即ち人間の艱難因苦は人間が救済しなければならぬのであるから。
人を助けるのは、金光教のためでもなく、罪滅ぼしの気持ちからでもなく、何かおかげを求めてするものでもない。
人として生きておるのだから、人が人を助けるのである。
私はこの言葉に、
「人が人を助けるのが人間である」
という教祖の言葉通りの言葉であると感じ、今日一番の感銘を受けました😭
一体何のために人を助けるのか?その救済観について、アダムスさんと佐藤先生を通して教えてくださったように思います🙏
大変すばらしい勉強会でした✨