助け合うも利用し合うも、姿形は同じ

私は岡山で一年間、金光教教師の養成学校に行ったあと、大阪の難波教会へさらに一年間、修行に行かせていただきました。もう8年くらいも前のことになります😅

今朝は久しぶりにふと、難波での修行生時代に書いていた信心・教話メモを開いてみました。

3日に1回あたるご祈念の後の、自分の教話内容だけではなく、聞いたことや読んだものを、抜き出したり、自分がどう理解したか書き出したりしていて、後から読んでも中々おもしろい。

本日は、その中で目がとまった書き留めをひとつ、ご紹介。

助け合うのも利用し合うのも、現れる姿形は同じ。
しかし利用する生き方は、都合の良い様に必要に応じて相手を利用する。
自分の都合は良くなるが生かす役には立てない。
共に生かし合えず、そこにお礼の気持ち生まれない。

お互いに助け合う生き方は、相手を思って助ける、自分も生かす。
役に立ち、共に生きて、生き続けていき喜び合い、自然にお礼の気持ちが生まれる。
心の働きがあってのこと。

残念ながら、メモをしていなかったのでどこからの引用なのか分かりませんが、最初の一文にドキッとさせられます💦

私達は生活において、一人で生きるということはできません。さまざまな他者と関わっていくことが必然として生まれてきます。

私達の存在というのは、他者との関係性の上に成り立っている、関係存在であるとも言えるのではないでしょうか。

(余談ですが、私が今学んでいるスピリチュアル・ケアの村田理論の中では、自己の存在は、時間存在・関係存在・自立存在を軸として語られています)

その関わり方が、表面上は良くみえても、本当に心はお互いに助け合う心持ちになれているだろうか?という自分への問いがこの文章から引き出されてくるように思います🤔

金光教の信心をさせていただく者として、自分ひとりが助かれば良いという生き方になるのではなく、相手も自分も共に生かすことができる、共に喜び合いお礼の言い合える関係存在になっていくことを大切にさせていただきたいな、と思います🙏✨

雑記

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