2022年上半期感謝祭が仕えられました!

今日は佐古教会にて上半期感謝祭が仕えられました!

祭典の中では神様に、この半年間無事に過ごさせていただいたお礼、ここからまた半年間、元気におかげをいただいて過ごさせていただけるようにとお願いをさせていただきました👏

今年は平日の祭典のため事前にお参りに来られる方も多く、祭典当日はゆったりとした雰囲気の中でお祭りを仕えさせていただくことができました😊

祭典後のお話は、昨日の日記をもとにお話しをさせていただき、母から「良いお話だったから教会便りに載せてな」と太鼓判をいただきましたので、こちらの日記にも掲載させていただきます👏

長文になりますので、お時間があるときにお読みくださいませ👌

「上半期感謝祭後の教話」

皆さん、おめでとうございます!

ただいまは、徳一教会長祭主のもと、2022年の上半期感謝祭をお仕えさせていただき、神様へこの半年間のお礼を申し上げ、さらに、この半年間の心のチリやほこりをお祓いさせていただき、後の半年間、心新に過ごさせていただけますようにと、お願いさせていただきました。毎年言っているような気もしますが、本当に時間が経つのが早く、もう半年が過ぎたのか、と感謝祭を迎えるたびに驚かされます。

この半年間、皆さんはどのようにお過ごしでしたでしょうか。

大きく生活が変化された方もあるでしょうし、いや、いつも通りだったよ、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

今年はコロナも少しづつ落ち着きを見せてきているものの、何もかもが値上がりし、さらにこの、とても早い梅雨明けからの真夏日。どこか、例年よりも厳しさを感じてしまうような気がいたします。

さて、昨日私は、この上半期感謝祭にお供えする果物と乾物を買いに行かせていただきました。ちょうど、午前と午後にオンライン会議が入っていたものですから、その間の時間、2時間ほどで行って帰ってこないと、と買い物に行く前から少し気が焦っていたんですね。

いつも乾物の買い物にはダイレックスに行っておりましたので、昨日もいつものようにダイレックスへ行きまして。

ついでに果物もここで買ってしまおうと思ってバナナを手にとった途端、いや待てよ。2時間あるなら中央卸売市場まで行って帰ってこれるな。そしたらもっと安く新鮮なものが手に入るぞ。

そんなことが頭の中に浮かんできたんですね。そこで、乾物だけを買わせていただいて、車に乗って、沖洲の中央卸売市場に向かったんです。

そこで、信号がない道を走ろうと思って土手の方へ行ったら、道を間違えまして、家の方向に戻るようにしか曲がれない。仕方ないから途中でUターンしてまた土手を走って市場まで行きました。小腹が空いたからかばんの中にいれておいたお菓子を食べようと思ったら、見事にチョコの部分が溶けていて食べれない。

さらに、市場についたら人がいない。水曜だから休みだったのを忘れていたんですね。今日はなんとついてない日だろうかと思って、別のお店で果物を急いで買わせていただいて、帰ってくるときにかかってきた電話はなぜか電波が悪くて途切れ途切れ。

全部ささいなことなんですけど、やることなすことすべてがうまくいかないような気がして、こんな日、ありますよね。それで、落ち込むというか、自分にイライラしていたんですね。

そんな時に、そういえば、こんなみ教えを教祖様は残されていたなぁというのを思い出しました。

「信心していても、よいことばかりではない。悪いこともある。手にでも、表と裏があるようなもので、裏の出た時には、早く表の出るようにおかげを受けよ。」

今、私は手の裏の部分なんだよなぁと思いまして、こんな日もあるある。今はじっと乗り越えさせてもらって、はやく表になるようにお願いさせてもらおう。そう思えるようになることで、少し、気持ちが落ち着いてきたのでした。

ここでこのみ教えのことを考えさせてもらうと、とても面白いみ教えだなぁと思うのです。

私たちは一般的に、信心したらおかげを受けれるようになるのだから、生活で起こってくることは良いことばかりになっていくんじゃないの?と思いますが、この教えの中で教祖は、いくら信心しているからといっても、良いことばかりが起きるわけではない、と言われています。

でも、別のみ教えでは、信心しておると年々ありがたいことが増えてくる、と言われているものもあります。

信心していても良いことばかりではなく悪いこともあるのに、年々ありがたくなってくるって、いったいどういうこと!?と、まるで謎かけのような状態になってしまいます。

このことについて、私はこんな風に思うのです。

天気の日があれば雨の日があるように、一日として同じ日はない。それと同じように、良いことがおこり、悪いことが起こるのも、これは天地の道理のことである。逆に良いことばかり、というのが不自然なものなのだということかもしれません。

けれども、信心というのは面白いもので、天気の日も雨の日も、ありがたいなぁと思うことができる。これと同じように、悪いことでも有難いと思うことができるようになってくる。そういう部分がこのお道の信心ではあるんじゃないのかと思うのです。

「難はみかげ」「難義があってありがたい」という言葉がこのお道の中ではあるけれど、難儀があるからこそ、「本当は当たり前ではなかった大切なもの」という自分の足元の幸せに気づきお礼を申していくことができる。

少し前に、徳島でも大きめの震度の地震がありましたよね。私も寝る前で、とても驚いて恐ろしくなったのですが、その恐ろしさを感じると同時に、今まで何気なく過ごしてきた時間というのが、どれだけ幸せなことだったのだろうか。と改めて感じさせていただき、いつもと同じ環境で寝ているはずなのに、いつも以上に、こうしてお布団の中で寝させていただけること、これがどれだけありがたいことなのか、毎日気づかずに申し訳ないという思いと、心からありがたい、という気持ちにならせていただけたのでした。

悪いことが起こったら、はやく良いようになるようにと願わせていただく、けれでも、やはり悪いことが起こるのも天地の道理のことであるので、悪いことが起こっても、そこにもありがたさを感じられる信心の器をつくっていく。

佐古教会では7月1日から夏の信行期間が始まります。教会への日参も信心の稽古になりますが、いつでもどこでも、何もなくてもできる、というのがこのお道の信心でもあります。

日々の生活の中で、お世話になるすべてにお礼を言わせていただく。悪いことがおこったら、これはあたらめて自分の足元を見させていただいて、そこに何があるのかに気づかせていただく。そして、神様に、こういうことでしょうか?とお伺いを立てていく。これは、起きたすぐの布団の中でも、家でいるときでも、どこでもできることです。

毎日が信心の稽古場ととらえさせていただいて、年々ありがたくなる信心の器づくりを、ともどもにさせていただき、今日もありがたい一日だったといえる日が年々増えていくことを、願わせていただきます。

本日はお暑いなか、ようこそ、ご参拝でした。

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