信徒会のことで
ちょっとうれしくなったこと。
先日、佐古教会の信徒会総会が開かれたとき、「何をもって信徒会の会員とするのか?」というお話が出ました。
(というか、私が気になって信徒の皆さんに質問しました)
一応信徒会費(一人月500円、教会建物維持費や駐車場代、建物保険、広前の光熱費に使用)はあるものの
それも強制ではありません。
そうした中で、信徒会員とは、どこからのことを指すのか?と問うたときに、
それは明確に決めなくてもいいんじゃないか?参拝される皆さんが信徒会員だと思う、という答えに落ち着いたのです。
組織的なことを考えれば、費用を支払った人が信徒会員だ、ということが一般的かもしれませんが、
そうではなく、信徒会費を払っている、払っていないにかかわらず、参拝されている方がみな信徒会員である。というこの考え方。
とても金光教らしさがあるなぁとありがたく感じました。
というのも、お金がなかったら助からないのでは、神は喜ばれない。と、教祖は寄進勧化を戒め、
天地に生かされているものはみな神の氏子であり、助かってほしいとの願いをかけておられました。
教会でも、それは同じことだと思うのです。
もちろん、形あるものとして教会があるのだから、維持費もかかります。
だからこそ、「自分たちのために、みんなのために、教会がこの先もあってほしい。」と心から願ってくださる方のお供えは大切に使わせていただきますし、それは神様もその気持ちを汲み取り喜んでくださることだと思います。
だけれども、お金を払わないとお参りできない、信徒会員にはなれない、というのでは、神様・教祖様の願いに反するなぁと思うのです。
信徒の方々からこうしたお声を聞かせていただいて、教祖の説いた「人の助かる道」がこうして佐古教会にもつづいていっていることに、とてもうれしく感じたのでした👏