お守りやお札
たまに、「お守りとかお札、御朱印はないのですか?」と聞かれることがあります。
金光教では、神道によくあるお札や御朱印といった宗教的文化がほぼありません。
(もしかしたら、されている教会がある可能性もありますが)
というのも、教祖が残した教えの中に
お札(ふだ)をくださいと願ったところ、「お札はない。お札は人間の目当てにするもので、お札からおかげが出るのではない。神は目には見えないが、そこら辺りいっぱいにおられるので、神の中を分けて通っているようなものである。願うのは壁(かべ)を目当てに頼んでもよい」と仰せられた。
天地は語る336
というものがあるからだと思います👀
お札からおかげが出るのはなく、私たちはすでに神様の中を分けて通っているようなもの。
神様のおかげを受け続けて生かされているもの。
だから、どこで願っても神に届くし、おかげはすでに受けているのであるから、そのおかげを受ける自分の器を作らせていただくこと。
これが金光教の信心、稽古する信心ということになっていくのでしょう😊
もちろん、人は目当てのものがあれば願う気持ちが強くなりますし、心を改めることもできます。
だからお札やお守りがいけないということではなくて、そこからおかげが出るのではなくて自分の心がおかげを生み出していくのだ、ということを踏まえたうえで、
願う目当てにするのは教祖の信心からもかけ離れないのではないのかな、とふと思わせていただきました👏
金光教教祖のみ教えは、参拝された一人ひとりに対して説かれた言葉で、その人の性格や状況などによってもおっしゃられる内容が大きく違っていたりします。
だからこそ、み教えの言葉をもって教祖が何を伝えたかったのか??というところに想いを馳せることが大切だし、考えれば考えるほど教祖の信心が大きく広いものだということを感じさせていただいています😊