金光教の修行について

以前、勝浦に夫とキャンプに行った時、帰り道に滝を見にいってきました。

この不動の滝は、もう少し上にのぼると、滝を裏側からみることができるようになっています。

「滝行とか、めっちゃしやすそうなところだな~」と思って眺めていました😁

でも、金光教の教祖は、修行について、こんな風に残してくださっています。

・表行(わぎょう)よりは心行(しんぎょう)をせよ。

・世の中に表行(わぎょう)をいろいろする人がある。寒行(かんぎょう)として拝んで歩いている人もあるが、心行(しんぎょう)といって、人に不足を思わないで、物事の不自由を行とし、家業を勤め、身分相応を過ごさないよう倹約をし、だれにも言わないで行えば、これが心行である。

天地は語る199, 200

表行というのは、水をかぶる水行や滝に打たれる滝行、火の上をあるく火渡り、断食などの厳しい修行のことを言いますが、それよりも、心の行をした方が良いよ、と言われているのです。

それは、家の中でも十分にできるよ、と。

なんだか、ちょっとユニークですよね😅

私は昔、厳しい修行にあこがれていたこともあり、金光教の養成学校の授業の中で、金光教の修行観について調べたことがありました。

そこでは、教祖は「表行よりも心行をしなさい」と言っているけれども、実は、教祖自身も、そして金光教の多くの先生方も、冷たい水をかぶったり、氷の池の中を泳いだり、とがった木の上でご祈念をしたりと、中々驚くような厳しい修行をされていたということが分かりました。

ただ、ここで大切なのは、単純に「厳しい修行をする=御神徳やおかげを頂ける」ということではないということです。

厳しい修行をされていたどの先生方にも「人を助けるために、どうにか神さまからの御神徳をいただけるようにならねば」という強い強い願いと覚悟がありました。

この「どうにも御神徳をいただきたい」という気持ちの発露が、厳しい修行という形にあらわれていったのだという順番が大切だと思います。

修行をやってみても、そこに心が伴っていなければ、自分の身体を痛めるだけ、そして家族を困らせるだけ。

つい、「修行をやらなくちゃ高徳にはなれないのだ」と手段が目的になりがちな私たちに、それよりも、神さまに心が向かう心行という土台がまずは大切なんだよ、と教祖は言ってくださっていたのだなぁと、調べていく中で感じさせていただいたのでした。

そして、この「心行は日常生活の中でも、出来るものだ」という日常生活の中での修行について、私が佐古教会二代教会長から教えていただいたことを、明日は書かせてもらいたいと思います😄

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