坊さん、ぼーっとする
夫と一緒に「お休み中に本を一冊は読もう❗」という約束をして、ようやく、読みたいリストにあげていた本を一冊読むことができました😄
🔽読んだ本はコチラ
坊さん、ぼーっとする。 娘たち・仏典・先人と対話したり、しなかったり
愛媛県にある四国の五十七番札所「栄福寺」の住職である白川密成さんが書かれたエッセイです。
実はこの白川さん、私が未来の住職塾関係でお坊さんの研修などにも参加させてもらうようになってから、ちょこちょこ同席することがあって、勝手に親近感を覚えていた方です。(あくまでも勝手に、なのでご本人は私のことは知らないでしょうが😅)
市立図書館で宗教コーナーを見ていたら、偶然この本を発見。
「見たことがあるお名前だ~!😆😆」と嬉しくなり、早速借りさせていただいたのでした😁
本の中に出てくる仏典の言葉は難しく、やはりスッと頭に入ってこないものの、高野山真言宗を信仰されている方はこのような世界の見方・捉え方をするのかと、日常の白川さんの言葉から感じとれることは面白い。
本の中で、こんな一文があります。
宗教とは、新しいものを創造するものではない。僕たちが囲まれているこの世界とその動きについて、「正確に知ろうとする」営みであると思う
坊さん、ぼーっとする P216
私も金光教の信心というのは、これとよく似たものがあると思っています💡
私達が生かされているこの天地で、変わらず営まれてきている働きや理(ことわり)に気づき、自分もその中の一員なのだということを感得していく。
この天地の中でいのちあるものはみんな、すでに神様の子どもであり、さらにはその人たちの中に神様はすでに在るので、信心とは、そのような天地の道理に、世界の姿に気づいていく、「気づきである」という思いを私はもっています。
なので、いのちあるものはみんな、(本人が気づいていなくても)金光教の信徒であるとも思っています。(教会組織での信徒とは意味が違うかもしれませんが…神様からみたらそれは関係ないと思うので)
そんなことを、改めて思い出させてもらったなぁと思いました😆
ぜひ、興味がある方はご一読ください😄