手段と目的と

三年ほどまえから、「徳島傾聴塾」の傾聴ボランティア養成講座に参加し、月一回の定例会に参加するようになりました。

ただ、コロナ前は実際に高齢者施設へ足を運び、お話を傾聴させていただいて、

そのときの経験をもとに定例会でフィードバックを受けるようにしていたことが、

コロナ拡大の影響により、施設訪問もできなくなり、フィードバックを受ける機会もほぼなくなってしまいました。

今回は、そのような中で会員の方たちがどのように思っているのかというのを定例会の中で共有させていただきました。

そこで心に残ったのは、傾聴ボランティアというのは、反復(傾聴方法)することが目的ではなく、援助が目的なのだという言葉でした。

傾聴する、というと、語り手の言葉を反復していくというイメージがありますが、それは傾聴のあくまでも手段であり、

本来は人が生きていく上でのスピリチュアル的な痛みの回復を援助するということが目的となります。(あくまでも回復するのは本人の力で、傾聴者は支援者として)

その、「語り手の心に沿う」ということなしに、いくら反復してもそれは援助にはならないのだということをわからせていただき、

これは金光教のお結界取次でも同じだなあと思いました。

お参りに来られる、相談に来られる方が神様とともに生きる生き方をもって、持続的な感謝、安心、喜びがその方の、その家の生き方となっていくこと。

そうなっていただくことを、結界取次や電話取次、祭典、教会行事をもって支援するのが佐古教会の教師の願いである。

その願いのところを忘れないようにさせていただきたいなと傾聴塾の定例会から思わせていただきました👏

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