信心は「気づく」
佐古教会では、定時のご祈念の後に、『天地は語る』から一つ、み教えを抜き出して参拝者の皆で音読しています💡
今日のご祈念後のみ教えはコチラでした🔽
どんなによい料理屋が隣(となり)にあっても、その料理屋のごちそうを食べたことのない人は味を知らない。料理屋のごちそうは食べなくてもよいが、金光大神が話している天地金乃神のおかげは、受けないわけにはいかない。また、多くの人の中には、私は天地金乃神を拝まないがそれでもさしつかえはない、と言う人もある。これは恩を受けて恩知らずというものである。
天地は語る125
これを読みながら、確かになぁ…🤔と納得。
金光教が奉斎している天地金乃神(てんちかねのかみ)という神様は、特定の物に宿るとか、土地ごとの氏神様とはまた別の神様で、この天地そのものが神様の身体であり、神様のお働きの中で私たちは生かされていると言われています。
ということは、どこに住んでいようとも、どんな生き方をしていようとも、この天地にいのちを授かって生きている限り、それは天地金乃神様のおかげをすでに受けているということになるんですよね💡
私はこのことを原点として、信心は「願う、祈る」だけではなく、「気づく」ということだとも思っています。
自分がすでに神様の中で生かされているということ、その神様のおかげやお働きに気が付いていくこと、そしてさらには、その神様の願いや思いに気づいていくこと。
この「気づく」ということが金光教の信心の中で、大切なことだなぁと今日のみ教えを読みながら、感じさせていただきました🙏