言葉一つで。
今日のお昼は、有志の金光教の先生方と、オンラインでのコーチング研修を行いました💡
健康や人間関係、仕事など色々な項目で今の自分の満足度はどれくらいか?
それが10点満点ならどうなっているか?15点満点ならどうなっているか?具体的なその時の感情は??
など、その人の深い潜在意識のところに問いかけられるように話しを聴いて、
後からその聴き方に対して「ここはこうしたらいいよ。」というフィードバックをいただきます😄
私が今回「惜しかったなぁ」と教えてくれたことは、
「あと1点で10点満点なら、何が足りないと思っているんでしょうか?」
ではなく、
「10点満点の理想の世界なら、あなたはどうなっていますか?」
と問いかけた方がいいよ、とのことでした💡
何故ならば、どちらも、10点満点の状態について聴く問いですが、
最初の問いかけだと、今の現実の状態から何が足りないのかという、現実的な足りないもの探しに意識が向いていってしまうようになるのに対し、
後の問いかけだと、より自分心を広くもって、理想の姿を想像することができるうようになる、
という大きな違いがあるからなのです😲
言葉かけ一つでこんなにも相手の考える方向性が変わってしまうのか👀
と、言葉のもつ力に、驚かされました😂
それとともに、思い出したのは下記の金光教教祖のみ教えです
病人に品物を与える親切だけが見舞いではない。見舞いの言いようで、気分が強くもなり弱くもなる。せっかく見舞いに行く親切があるなら、病人の心が丈夫になる見舞いを言うてやると、病人の心が広く大きくなる。この時より、神様のおかげをすぐにいただくことができる。
金光教教典 理解Ⅰ類 山本定次郎師の伝え36
此方の話したことを、病人、また家族に話しておくと、常に悪いことを思わず、安心して全快することばかり楽しむ。ただ一時でも早くようなれば、何のそれがしが見舞いに来てくだされた時より、急によろしくなりたと思うて喜ぶ。
見舞いに行き、病人を見て涙を流し、さぞさぞと病人をなでさすりして、病人の心を苦しめるようなことなく、病人のためになり家のためになるように親切するがよろしい。
人によると、病人の顔色を見て嘆き、また、やせたのを見て嘆く。家族へは地方の悪いことを集めて話す。その時には悪いことが満ちて、神様のおかげを入れる所もないようになる。そのような心配をさしては、見舞いに行きて見舞いにならん。
病人の心が大丈夫になるように話をいたし、また病家の者には、心配辛苦をさせんように話し、なるたけの手伝いをせよ。また、貧しい人には金や穀物を贈るなど、助ける道はいろいろある。何事にも心にかけて信心しなさい。
何神様を信じておる人も、仏様を信じておる人も、この天地金乃神様のおかげを受けておるのを知らずにおるのである。わが親神様を拝んで、その次にほかの信心をするのが、真の信心であろうではないか。
「見舞い一つとっても、声かけ次第で相手の気分を良くすることもあり、悪くすることも出来てしまう。
だからこそ、病の人の心が広く大きくなるような声掛けを心がけておけよ。」
私たちは普段から『言葉』をたくさん使っていますが、その言葉をどう使わせていただくのか、これも信心の稽古になっていくのだなぁと思わされます🙏
私も言葉選びはあまり上手な方ではありません💦
けれど、人の心が広く大きくならせてもらえるような言葉選びをさせていただけるように、稽古していきたいなと思います🥰