何がおかげ???

金光教教師として御用をさせていただく中で、「おかげとは?」という疑問にぶつかることがあります🤔

一般的に『おかげ』と聞くと、『人の力添えや神仏の助けなどによって受ける恩恵』という意味を思い浮かべますよね。

だから、「信心しておかげをいただきましょう」と聞けば、『信心すれば自分が願っていることが叶う。何もかもがうまくいくものだ』という風に捉えるし、そうなると、願いが叶わなかった時は「信心しても、おかげはいただけなかった」ということになってしまいます😥

前にハワイに御用で行かせていただいた時、熱心に信心をしているご婦人の、お孫さんと話す機会がありました。

その時に、お孫さんは、「この間、僕のおばあちゃんはこけて鼻を怪我したんだよ。信心しているのにどうしてこんなことになるの?」ということを話してくれました。

「あれだけ熱心に信心しているのに、怪我や病気が起こるじゃないか。信心の意味ってあるの?」という率直な質問です。

その時は英語だったのでうまく伝えることが出来ず、日本に帰って来てからも「あの質問にどう答えることが出来ただろうか?」と何度も考えました。

そして、今の私なら、きっとこう答えると思います。

身体をもって生きているのだから、怪我もするし病気にもなる。それがこの天地の間で生きる中での自然なことで、道理というものだと思う。

ただ、おばあちゃんは鼻を怪我したけれど、そのおばあちゃんが今の状況をどう捉えているのか、もう一度よく見てみてほしい。

「大難(大きい難儀:だいなん)を小難(小さい難儀:しょうなん)に変えてくださった、有難い」と喜びの気持ちをもって神さまにお礼を言っているおばあちゃんの姿があるよね。

信心していなかったらどうだろう。

「運が悪かった。なんでこんな痛い目に合わないといけないのか。」そんな風に、辛い気持ちを持ってしまうことの方が多いんじゃないかな?

晴れの日もあれば、雨の日もあるように、生きていればどん底のようなことにもであうことがある。

けれど、どんな時でも、心が神さまに向かえば、そこに神さまの恩恵を見い出させてくれる。喜びが心に生まれてくる。

「おかげの中に生かされている自分」を実感する。

ここに、信心の価値があると、私は思っているよ。

金光教教祖は、お参りの方にこのように話しています🔽

金光様、巳の年にお下げあるは、
「信心せよ。信心ということは、しんはわが心、じんは神なり。わが心が神に向かうをもって信心と言うなり。恩徳の中におっても、氏子、信なければ、おかげはなし」
とお話しあり。ありがたき、恐れ多き理解なり。悟りてみるに、カンテラに油がいっぱいあっても、芯がなければ火もうつることなしと思い定め、信心なければ世界が闇なりと悟り、またカンテラに火がうつらずば夜が闇なりと悟り申し候。

金光教教典P200 理解Ⅰ 市村光五郎1 

「信心しなくてもおかげはすでにやってある」「おかげの中で生まれ、おかげの中で生き、おかげの中で死んでいくのだ」と言われることもあります。

目の前に大きなおかげがあっても、気が付かなければ、それはおかげが無いのと一緒。

信心していく中で、そのおかげが目の前にハッキリと、現れてくるのが信心の醍醐味であり、楽しみなのだなぁと思っています🙏

雑記

前の記事

冷たくなりました
雑記

次の記事

お風呂は神さまのミルク