「親ガチャ」について考えてみた

今朝、「スッキリ」というテレビ番組の中で特集されているのを観て、初めて『親ガチャ』という言葉を知りました👀

子どもの立場から「親は自分では選べない」「どういう境遇に生まれるかは全くの運任せ」と述べる表現。ソーシャルゲームにありがちなキャラクター入手方法(いわゆるガチャ)になぞらえた言い方。

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若い人たちを中心にTwitterやネットで話題になっているこの言葉に対して、自分でももう少し考えを深めてみるために、今日の徒然日で書いてみよう!と思い立ちました。

が、ネットで調べていただいたら分かるように、ただでさえ賛否両論が分かれている言葉で、それをどう捉えていけばいいのか、大変難しい・・・😥

私自身の個人的な話だと、「教会に生まれてきたから、土日にバザーとかの手伝いをせなあかん!」という『家ガチャ』のようなことは感じたことはありますが、それも小学生とかの、子供の頃の話で。

大人になってからは、していることの大切さを感じるようになりましたし、ここに生まれて良かったと、家への誇りもあります。

親に対しても、尊敬や感謝こそあれども、親を選べなかった、という感覚は殆どありませんでした。

なので、私は『親ガチャ』の是非を言えるような立場ではないのかもしれない…というところが正直な思いです😥💦

ただ、「子どもは親を選べない」という言葉は昔からありますし、

仏教では、人の四大苦である「生老病死(しょうろうびょうし)」の「生」とは、生まれる時・場所を選べない苦しみであるとも言われているようです。

ですので、この『親ガチャ』という感覚は、言い方が現代風で、若者が直観的に分かりやすいキャッチ―な言葉になっているけれど、人にとっては、何も新しいものではないのでしょう。

もしかしたら、子どもにとっては『親ガチャ』だけど、親にとっては『子ガチャ』、そして『家ガチャ』なんていうのにも言い換えることが出来るかもしれません。

なんにせよ、『人が自分で選ぶことが出来ず、そこから生まれる苦しみ』というのはこの世の中にたくさんあるんだな、と感じさせていただきました。

そしてふと、そこからさらに、

「ここに神さまの視点を入れたらどうなるだろうか?」と考えてみたくなりました。

すると、どんなガチャであっても、その生みの元である神さまにとっては、どれもが大切なものであるだろうし、そのガチャを手に取る人たちにも喜んでもらいたい、という願いがかけられているのではないだろうか?という思いが出てきました(それに自分では気づかないことも多いけど)。

もしかしたら、誰がどのガチャを引くのかも、実はそこに神さまの大きな願いがかけられているのかもしれません。

もちろん、だからと言ってその言葉を使わざるをえない当事者の苦しい気持ちが、ないがしろになってしまってはいけないと思います。

ただ、そうやって捉えなおしてみようとすることが、今自分が置かれている状況から踏み出すための、踏み台になるのではないかな、ということも考えさせていただきました🙏

まだまだ、この辺りはもっと考えを整理させていきたいですね😅

雑記

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