待ち時間?それとも…?
佐古教会のお広前の玄関は、戸が開くと建物内にお知らせの音が鳴るようになっています💡
その音を聞いて教会建物の奥で別の御用をしている教会家族がお広前に出ていく、ということが多いのですが
よくそれは「手を叩いたら鯉が来るのと同じ」と揶揄されるように、お広前でのお取次ぎを大切にする金光教教師の風土ではあまり良いイメージを持たれていません😱
ただ、何年か前に愛媛の先輩教師から、こんなことも教えてくれました。
「僕は、ご信者さんがお参りに来られたら、わざと遅めにお広前に出るようにしてるんですよ。だって、そうしたらご信者さんがゆっくり神様と向かえるでしょう?神様とご信者さんとのお邪魔をしたらいけないと思って、その時間は大切にしてる。」と。
目からウロコというか、そういう捉え方で神様とご信者さんのことを見ておられるのだなぁと、私にとってこの言葉は大きく価値観を変えてくれる一言でした。
確かに、私も一人でゆっくりご神前の前に座っている時間は好きで、周りに教会家族がいると、変に意識してしまって集中出来ないことも多くあります😅
それを思い出してみると、神様と自分、ゆっくりご神前で向き合える時間として、待つ時間も信心の時間になっていくものですね🥰
もちろん、「お参りに行くといつもお結界に先生が座ってくれている」ということはとても安心することだし、現状、佐古教会ではご信者さんのことを祈って教会長が一日の多くの時間をお結界・お広前で祈ってくださっているので、それもとても有難いことだと思っています🥰
形がどうあれ、すべては、神さまに心向かうことで信心となっていくこと。
ここを外さないようにしていくことが大切なのかな、と思わせていただいております🙏