あるご葬儀を終えて
昨日、今日の二日間、県内の金光教の先生のご葬儀で、祭員の御用にお使いいただいておりました🙏
その教会と佐古教会とは、お互いの大祭に参列・参拝させていただく関係で、私も毎年最低4回は、その先生とお顔を合わす機会がありました。
けれどもここ二年、コロナの影響で大祭も自教会のみでお仕えするようになり、「コロナが落ち着いてきたら、またお会いさせていただけるだろう」と思っていたところの突然の訃報でしたので、大変驚きました。
ただ、90歳を超えて、最期は教会で苦しむことなく老衰で亡くなられたとのことで、ご葬儀は本当にとても和やかな、温かなものとなりました🙏
この先生は、齢を重ねても、熱心に親教会へと参列・参拝され、親から受け継いだ「恩」をとても大切にされた先生です。
4~5年前くらいから、私が先生とお会いする度に、
「私が亡くなった時の葬祭場も、葬儀の祭主をしてくださる親先生が泊まってくださる宿も、もう決めてるんよ。道江先生には、親先生の御接待、お願いしますからね。」
と先生から何度もお話いただいていました。
その時のことを思い出してみると、
「今回、親先生にもご祭主としてお越しいただいて、本当に、先生が生前からずっと願われていた通りのご葬儀が仕えられたなぁ…」と、胸が熱くなります。
そして、
「自分の『身体としての人生の最期の締めくくり、御霊としての新たな出発』の時を、心から『信心の親』と頂いている親先生と共にさせていただけるというのは、一体どれだけ有難く、安心なことだろう。」
そんな気持ちが、この二日間で湧き上がってきました。
(私も、自分が亡くなった時は、難波親教会の先生にご葬儀をお仕えしていただきたいなぁとも改めて思わせていただきました。)
この度のご葬儀で私自身は、自教会とは違う祭典次第の動きを覚えるのに必死で、「少しでも先生のお役に立たせていただけますように。ご葬儀のお邪魔になりませんように」、と神様にお願いさせていただくばかりでしたが、
こうして二日間を振り返ってみると、無事に、そして本当に有難く、ご葬儀を仕えさせていただけて、本当に大変ありがたい思いでいっぱいです。
身体が無くなり、言葉を交わすことは出来なくなり寂しい限りですが、先生の御霊の神としての益々の立ち行きを、お祈り申し上げたいと思います🙏
先生、本当にありがとうございました。